「タヒチ島にて」 1900年前後 2011年10月16日(日)配信

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ゴーガンが初めてタヒチ島に渡ったのは1891年06月08日のことだ。
この絵はその翌年に描かれている。ゴ-ガンの波乱に満ちた生涯は
いたましいが、まだここでは経済的な問題は別にしても、
自伝<ノア・ノア>に記録されている様に、世紀末文明から脱出し、
自ら求めた野生の中で喜びに満ちた制作をしていた時期、
最も油の乗り切った時代の作品である。
タヒチの女が立つタヒチの風景である。日本の浮世絵から多くの影響
を受けたゴーガンは、ココでも誠に装飾的な画面を作りあげている。
トカゲが火を噴いているのも象徴的で、知性と野生とのみごとなな融合
もさることながら、ゴーガンが好んで口にした、彼の内面の思想が明確
に表現されている。
(解説者:不明) |
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「アルカションでの会話」 1926年 2011年10月23日(日)配信

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アルカションは南フランスボルドーの西、ビスケイ湾にのぞむ入江
アルカション湾の海水浴場である。ココは1920年以来ボナールが
しばしば訪れたところだが、この作品は、青い海にヨットやボートが
浮かび海水浴客で賑わう真夏の海辺を描いている。
ふと見かけた情景を素早くスケッチにするのはボナールの独壇場
だが 、真黒に日焼けした少女の真ん中に左右から話しかける
男女は両親でもあろうか。
太陽の光と影、描かれた人物の体温が感じとれるほどに、日常の
生活をあくまで大事にいとおしんだ画家の心情が溢れている。
(解説者:不明) |
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「村の図書館で」 1954年 2011年10月30日 配信

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雪に埋もれた小さい村の図書館である。学校帰りの子供たちが
カバンを提げたまま立ち寄り、絵本や童話を借り出して読む。
思い思いの姿勢で本を覗きこむ子供。自分が頼んだ本を出てく
るのを瞳を見開いてジッと待っている少女。
何気ない子供の情景を素直な写実で的確にとらえられた。
可愛く微笑ましい作品だ。
作者は1928年に生まれ、53年にモスクワのスリコフ美術学校
を卒業した。
(解説者:不明) |
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「少女」 1956年 2011年11月06日 配信

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まだどこかに少女のあどけなさが残っている娘の肢体を描きたくて、
このお嬢さんにお願いしました。
良家のお嬢さんですが無邪気に着物をぬいでくださったのです。
着物のはしを膝に載せてはじらっている様すが、そのまま絵になるので、
そのままのポーズで写生させてもらいました。
ろうけつ染めの白と茶の小紋の着物が膝にかかっています。
(解説者:本人)
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1895年大津市に生まれる。奈良女高師国語漢文部卒業。 1913年日本美術院同人。
53年<O夫人坐像>で上村松園賞受賞後、芸術選奨、毎日美術賞、芸術院賞を受けた。
この作品は、第8回毎日美術賞を受賞。
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「ほほえむサスキア」 1633年 2011年11月13日 配信

サスキアはレンブラントの最初の妻である。この作品を描いた翌年にサスキアと結婚している。
1631年<トゥブル博士の解剖>で一躍肖像画家としての名声を博したレンブラントが、当時の富裕
な都市アムステルダムにあって、幸福の真っただ中で描いた作品である。
深い明暗と落ちついた色彩はレンブラント独自のものだが、とりわけ明るい希望に満ちたサスキアの
表情である。
1942年サスキアの死後、同年の作品<夜警>の不評を契機に、やがて貧民街に住むようになった
不遇な晩年を迎え、この時代の作品にこそレンブラント芸術の完成があると言われるのだが、
それだけに、初期の傑作として手の中にいつくしむ珠玉の作品と言ってよい。
(解説者:不明) |
フリー百科事典:レンブラント
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「ネクタイの女」 1917年 2011年11月20日 配信

モジニアニが死んだ翌日、彼の妻「ジャンヌ・エビュテルヌ」は両親の住むアパートの窓から身を
投げて夫の後を追っている。1920年01月24日36歳で死んだモジニアリの生涯は貧窮と放浪の
連続であり、過度の飲酒が結核にむしばまれ肉体の消耗を早めた。
1902年22歳で故郷イタリアを離れパリに出たモジニアリは、やがてモンパルナスに移りここで
エコール・ド・パリの中心人物になっていく。 このメランコリック(物思いに沈むさま)な女体像を
描いたのは、ジャンヌと知り合っって結婚した年であり、また生涯での多作な年であった。
これから死ぬまでのわずかな期間に、彼の画風は確立し完成している。
(解説者:不明)
フリー百科事典:モジリアニ |
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「ル・アーヴルのスター酒場」 1899年 2011年11月27日 配信

ロートレックは2回目の登場だ。1回目は、1ページ目の「04」である。
絵の重厚感はさほど変わらないが、この絵は約6年後の作品でタッチが少し軽い。
ロートレックの生涯は短い。<ムーラン。ルージュ>のポスターで喝采を博し、彼自身の作品を
見出したのが1890年25斎の時、その後10年余りの1901年に死んでいる。
この作品は彼が死ぬ2年前に描かれたものである。 旅行好きのローレックは、1890年代には
毎年の様にマルロメの母のシャトーに出かけている。汽車を使わずわざわざパリからル・アーブル
に出て、船でボルドーに行くのである。
ル・アーブルでは決まってカフェに立ち寄ったが、ここでのカフェ<スター酒場>で働くイギリス
人の踊り子「ドリー嬢」を描いたのがこの作品である。
(解説者:不明) |
フリー百科事典 「ロートレック」 「ボルドー」 「ル・アーブル」
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「カフェにて」 1949年 2011年12月04日 配信

<世界のフジュタ>と言われるが、全貌を示す大きな展覧会は生前ついに
開かれなかったが、ココにようやく<追悼展>として実現した。
第二次大戦中に描いた戦争画から、戦争の協力、戦犯画家と決め付けた
日本画壇を離れ、再びパリに渡ったのは1949年。以後日本に帰らなかった。
55年国籍をフランスに移し、59年にカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタ
を名のり、最晩年はフランスの礼拝堂装飾に情熱を傾けた。
この作品は、戦後パリに渡った年のもの。
カフエの一隅で手紙を描く女性がふと手を休めてもの思いにふけるポーズだが、
衣服の黒と身体の乳白色、透明なバック、精妙な描線、
いずれも藤田の独壇場である。
(解説者:不明)
リンク:藤田嗣治 フリー百科事典:藤田嗣治
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「レーヌ・ナタリンと赤い胴衣をつけたマルト・ボナール」 1928年 2011年12月11日 配信

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ボナール夫人の絵である。この左側にナタンソン夫人が横顔を見せて
いる。戸外での食事、しずかな会話のひと時である。ボナール夫人の
胴衣の赤、ナタンソン夫人のドレスと食卓の明るいオランジ、
背景の樹木の幹、葉のしげり、溢れる様な色彩の交響である。
ボナール61歳の作品。<色の魔術師>と言われる画面が、とりわけ
香り高い豊かさを示し始めるのがこのころからだ。
今世紀初頭の激しい絵画運動の中にあって、ボナールは常に独自の
世界を歩み続けた。
平凡で平和な情景を親しく、明るく暖かく描いた画家である。
(解説者:不明) |
フリー百科事典:ボナール
★ピエールボナール:主要作品の解説と画像・壁紙★
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「麗子微笑像」 1921年 2011年12月19日 配信

わずかな微笑みをただよわせた唇、小さな黒い瞳の切れ目、緻密に描きこまれた毛糸の肩掛け、
これらがつくり出している神秘的な雰囲気な中に、童女の甘い感情がただよっている。
劉生は、「デューラー」など北方ルネッサンスの絵画に強い共感を示し、また中国宋元の絵画に
心のよりどころを求めた。
この絵にも劉生のこういう求道的な個性がはっきり出ているといえる。
(解説者:田辺 徹) |
フリー百科事典:岸田劉生 「デューラー」
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