日本刺繍     石楠の姿    sekinan
(経歴・年譜・刺繍制作など)




1963年撮影   (65歳)



           石楠の年譜

  1898年 (明治31年)   神田明神町にて10月に誕生(父:信之助 母:ます) 
  1905年 (明治38年)   根津小学校に入学
  1912年 (明治45年)   根津小学校卒業  
                    (逓信省に入省するもまもなく退職)

  1914年 (大正03年)   知人の紹介で刺繍を習う  
                     (歌舞伎を初めて鑑賞する)
  1915年 (大正04年)   別の刺繍屋で2年間修行をつむ
  1917年 (大正06年)   18歳にして「刺繍職人として独立」 
                    (町内から緞帳幕を依頼され、以降仕事が舞い込む)
  1922年 (大正11年)   芝大門の刺繍屋「松屋」で金モール刺繍を習う (24歳)
  1923年 (大正12年)   書道を本格的に習い始める

  1933年 (昭和08年)   結婚する(妻:千代)
                   渋谷の「大日本書道学院」へ通学 (35歳)
  1942年 (昭和17年)   刺繍禁止命令が発令される
  1943年 (昭和18年)   根津から谷中に転居 (45歳)
  1944年 (昭和19年)   軍服用階級章の刺繍指導員を実施

  1947年 (昭和22年)   背広の「ネーム」や階級章などの仕事をする
  1957年 (昭和32年)   「お習字の会」を発足 (59歳)
  1964年 (昭和39年)   脳血栓で倒れる (66歳)
  1966年 (昭和41年)   日本刺繍の会「如月会」を発足 (68歳)
  1972年 (昭和47年)   10月2日「心不全」で突如他界 (74歳) 




石楠の経歴



  私は、明治31年10月神田同明町で生まれました。
  父は青物市場の仲買人でした。生後まもなく根津清水町(現在の東京都文京区根津)
  に越し、根津小学校を卒業するまで絵をよく描き、図画や工作の成績はまあまあの出来でした。

  当時は、画家になりたいと思っていましたが、父の知人から
  「君は将来両親の面倒を見る責任がある。画家になってもその責任は果たせないから、諦めろ。」
  とよく言われました。

  小学校を卒業後、逓信省の給仕として勤めましたがすぐに退職。
  いずれは絵に関連した職につきたいと考えていましたが、
  根津宮永町に刺繍屋があるので如何か?との話があり、16歳で刺繍を習うことになりました。

  2年半刺繍屋で稽古をしましたが、仕事も少なくなり先方
  の都合で断られ、「これからは独自で、私なりの道を歩こう」と決意しました。

  19歳の秋、根津の通りに夜店が並び、八重垣町の一角に寄席が建ち町内会から
  「緞帳を贈りたいが縫ってもらえないか?」との話を引き受けました。

  今、考えても生涯の大作で皆さんから立派に出来たと誉めて頂き、
  また喜ばれた事が忘れられません。
  幕の片隅に名前を縫込みましたので、それが宣伝となって仕事が来るようになり
  近所の足袋屋さんからも「金モール」や「オランダ刺繍」の仕事を頂きました。

  当時、医師や良家に人力車があって専任の車夫がおり、
  足袋屋さんが出入りすることからハッピや帽子など に刺繍をしたのです。

  第二次世界大戦中の昭和17年7月頃、戦争が厳しくなって金糸や絹糸は贅沢だ!
  と政府から「刺繍禁止令」が出されたこともあり、刺繍職人は職を変えるなどで極端に少なくなり、
  陸海軍の将校がつける階級章の刺繍が裁ききれませんでした。

  昭和19年4月に、軍の指令で金モール屋が集まって「日本軍曹階級章製作所」を設立しました。
  ここで、私は各隣組のご婦人に刺繍を約2年間教えましたが、
  全くの素人が作った階級章は見るに忍びない物でしたが渋々使ってもらいました。

  昭和20年3月に東京にも爆弾が落ち、芝や浅草も焼け野原になりました。
  10月には、軍製品の終戦処理所が出来ましたので、ここに半製品を持ち込みお金に換え、
  私の所属する会社に届けた事を覚えています。




   
完成の旗と石楠(1966年)       如月会発足の日(1966年2月6日)          


        (以下は長男の私が書いたものです)

    昭和20年以降、背広のネームや米兵の肩や胸につける憲章を手がけ収入を得ました。
  若い時から書道が好きなことから、洋服生地に直接ネームを刺繍し、洋服が傷んでもネーム
  だけはしっかりしていると好評。
  立川の米軍基地から注文を受けた憲章は、納期が厳しくいつもせかされ毎日の様に裸電球の
  下、夜なべで仕事をしたことをよく覚えています。

  ある時「谷中小学校」「千駄木町会」「詩吟の会」の旗をお願いされて、金糸や銀糸で刺繍をし
  ましたが立派な旗に仕上がりました。上の写真は完成時(1966年)のものです。
                      
   私が中学2年の頃(1957年)、父は自宅で習字を教え近所の方が大勢習いに来てくれました。
  しかし、7年後の昭和39年に突如「脳血栓」で倒れ、半身不随となりました。
  約2年間リハビリに専念した事で回復し、その後「刺繍を教えたい」との話が持ち上が りました。

  昭和41年(1966年)に朝日新聞で募集の結果、直接自宅へ来られた方が39名、さらに328枚の
  葉書が舞い込み、当面15名の方に教える事にしました。
  参加者の中に「恵」という若い男性が来られ驚きました。

  2月から開催した為、名称を「如月会」として発足。年を増す毎に生徒さんも増え約30名の方に
  楽しく教えていました。

  しかし、父は昭和47年10月(1972年・74歳)に突如「心不全」で他界、残念にも如月会は 6年半
  で終了となりました。
   お棺の中に刺繍作品を1枚入れて送りましたが、父は誰にも迷惑をかけずに旅立ちました。




「石楠」が、生前書き残した文章を紹介いたします。
石楠の父は、神田の青物市場で仲買人をしておりましたが、真面目に働かなかった様で、
家賃が払えず15歳になるまで知人宅の2畳に居候をした事もありました。

根津近辺を12回も引越した記録があります。
大変厳しい環境の中で育ちましたので、下記の文章を残したものと思われます。

 
糸や針 はさみも持ってあの世とやらへ旅立たん 
あの世では 鬼のフンドシ 刺繍する
その為 鬼が喜んで 極楽浄土へいけたなら
先ず お閻魔さんの頭巾にも そしてお地蔵さんのヨダレカケ
その精進が 観音さんの眼にとまり 
今度この世に生まれたら 余り苦労のない家へ
 






日本刺繍     刺繍制作   石楠の魅力

ここでは、刺繍台の道具や下ごしらえの内容を記載しました。



 ここに展示した短冊や額などの作品は、着物や帯の刺繍と異なり刺繍をする生地を「刺繍木枠」に
 日本紙を貼りその上に生地を貼ります。 この刺繍木枠(62x42cm)を四角い刺繍台に載せます。

 刺繍台の形状は、写真の様な簡単なもので横幅62cm/奥行き42cm/高さは40cmです。
 木枠と刺繍台は、木の棒(28x16mm)を組み合わせたものです。


   
刺繍台 *右に見える刺繍の木枠(日本紙を貼ったもの)           小物の道具


                下ごしらえのやり方

  刺繍のデザインが決まり、下ごしらえ(土台作り)は下記の方法が・・・・・・・。

  *日本紙に描いた絵などを彫刻刀で彫り(アナが開く)、その型紙を生地に
    載せ胡粉や墨で生地に刷る。
 
 *日本紙を切り抜き、生地に貼り付ける。
  
フエルトを切り抜き生地に縫い付ける。

  お気に入りの色がない場合は、自分で糸を染めていました。
  また、絹糸は異なる色を合わせて「より」中間色を作りました。

 


         
  構想図     貼り付け    切り抜き型(日本紙)     フエルトを切り抜き
                                        紙を載せて回りをかがり
                                        膨らませた土台


       
  糸巻き               日本紙(質屋の台帳)


 刺繍をする時の姿は、刺繍台に座布団を敷き、あぐらをかいて「右手:枠の上」「左手:枠の下」
になるように座り、一針一針「上から下」「下から上」へと縫い上げていきます。
色紙程度のものでも、下絵の構想・作成も含め完成まで20日程度を要し、なんとも根気のいる
仕事ですが,何故か肩が凝る話は一度も聞いた事がありませんでした。



制作途中の作品


 下の作品は、制作途中で「もみじの葉」を数枚のみ刺繍しています。
木枠に貼り付けた絹に刺繍をしたものです。





未完成作品の裏面(周りは木枠)



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